
少林寺拳法 吹田市スポーツ南吹田
「拳」は肉体を、「禅」は精神を意味します。
身体と心は別々のものではなく、互いに影響を及ぼす一体のものです。少林寺拳法では、身体と心を、どちらかに偏らせることなく、バランスよく修養します。
人間は本来、心身一如のものであって、精神と肉体は切り離すことのできないものである。そのため、精神のみの修養によって、真実の救いや、人生における真の大安慰が得れるものではなく、また肉体のみの修練によって、真の人格が完成したり、真の悟りが得られるものでもない。
したがって、正しい修養の道は、まず精神(霊・心)の住家である肉体を養いながら、精神を修めるものでなければならない。
人間の精神と肉体、心と体は二つのもののように見えて実は一つである。心が主でもなければ、肉体が主でもない。肉体があっての心なのであり、精神があってはじめて肉体に意義があるのである。
心と肉体とが別々に切り離すことができないものだとするなら、その修養法はあくまでも心身一如、霊肉一如でなければならないはずである。
少林寺拳法は理想的な霊肉一如の修行法であり、完全な心身一如の練成法である。苦行ではなく養行であり、技術を楽しむ心身一如の修養法なのである。
国の北禅では、昔から 「拳」と「禅」とは切り離すことのできない修行とされている。しかし、その修行の効果は等しいものではなく、「拳=動」のほうが、「禅=静」の修行の百倍も千倍もの効果があると説かれている。
慈悲心や正義感に溢れていても、力がなければ、誰かの役に立ったり、助けたりすることはできません。
また、どれだけ力があっても、誇りや信念がなければ、正しい力の使い方はできません。力と愛、理知と慈悲の調和こそ、少林寺拳法の行動規範です。
人は愛に生き、人は愛する人を護り、生きる時、力が漲ります。
しかし、力は、歳と共に衰えます。
正義をかざしても、力の前には無力です。
また、力だけでは無能であります。
正義無き力は、無能なり。
力、無き正義も無能なり。
少林寺拳法の技法は、不正な暴力から身を守るためにあります。そのため、まず守り、それから反撃する技法体系となっています。
また、確かな守りの体勢を築くことで、相手の弱点を冷静に見極め、有効な反撃ができると考えています。
少林寺拳法の第三の特徴として「守主攻従」の原則があります。
少林寺拳法窪が「先手なし」という方針を貫いていることは、防御のほうが攻撃よりもすぐれているという」意味からではなく、「拳法を修める者の平常の心構えはかくあらねばならない」という大原則にもとづくものです。
その第一の理由は、少林寺拳法が金剛禅の「宗門の行」の一つとして「心身の練磨」と「正法護持の力の獲得」とを目標においているということです。
少林寺拳法は、正義正法を守るため、あるいは無法者の暴力から隣人や自己の安全を確保するためにのみ。行使する「破邪の拳」であるべきなのですから、どんな理由があっても、決して自分から先に人を打つべきではないという論理にもとづくものなのです。
第二の理由は、技術的な点からいっても「守主攻従」は有利な面をもっています。まず「不敗の態勢」を確立することが「後先必勝の機」をとらえるのに有利だから、このように訓えられているのです。 勝たなくてもよい、絶対に負けないこと・・・。これが大事なのです。
少林寺拳法の技法は、誰かを傷つけるためのものではなく、自分や他人を守り、活かすためのものです。
少林寺拳法の技法は、人の可能性を実感させ、成長の喜びを味わうために修練されます。
少林寺拳法の第四番目の特徴は「不殺活人」です。
これは、少林寺拳法の技が人を傷つけたり殺したりするためのものではなく、自己の身を守り、他人を助けるため、そして社会と人類の平和と幸福に貢献するためのものであるということです。
武の目的は、あくまでも「争いを止めること」であり、いたずらに「人を殺傷すること」ではないのです。
少林寺拳法の技は相手の皮膚を破ったり、骨を折るといったことは一切なく、まったく傷はつきませんが、強烈な痛みのために数分間は身動きもできず、完全に戦闘力を喪失した状態にするという理想的な法術です。
あくまでも「活人拳」を目標として、人を殺さず傷つけず、しかも正法を妨げる不法者を制圧することのできる効果的な技法が少林寺拳法なのです。
その秘密は、数千年の伝統を有する東洋医学の精髄(せいずい)『経脈医法(けいみゃくいほう)』が教えている人体の急所を完全にコントロールするところにあります。
もちろん、十分な効果を発揮するには、急所を知っているだけでは駄目で、合理的な技や力の使い方を知るとともに、それが反射的に出てくるところまで演練しておかなければなりません。
このように、少林寺拳法には少ない力で大きな効果を発揮し得る「技」がたくさんあります。
少林寺拳法では、「一拳必殺」という言葉は使いません。
あくまでも「一拳多生(たしょう)」であり、「不殺活人」です。拳士たるものは、同じ拳にも「殺人拳」と「活人拳」の相違のあることを知らなければなりません。
「殺人拳」とは単に己れの強さを誇示するために、理由もなく相手を殺傷したり、また自我を通すため自己の名声を得るために、戦いを求め、人を殺傷したりする邪拳です。
「活人拳」とは、己れの心身練磨の行法となるものであり、自己を防御し、多数の善良な人々を守り、正法を護持する正拳をいいます。まさに「一拳多生」なのです。
少林寺拳法の技法には、突き・蹴りなどに対し、受け・かわしから当身で反撃する「剛法」と、手首を握る・衣服をつかむなどに対して、抜き・投げ・固めなどで反撃する「柔法」があります。
剛法と柔法は、互いの特徴を活かしあい、巧みに組み合わせることによって、効果を倍増させることができます。
少林寺拳法の修練は、二人一組で行うことを原則とします。
これは、相手の行動に適切かつ柔軟に対処できる実戦的な技法を養うためであると同時に、共に協力して上達し、その喜びを分かち合うためです。